変わり損日記

徒然なるままに、ズレズレなる感性。

【読書録】2020年6月30日にまたここで会おう 瀧本哲史伝説の東大講義

 

内容 (Amazonより)

「君たちは、自分の力で、世の中を変えていけ!
僕は日本の未来に期待している。支援は惜しまない」

2019年8月に、病のため夭逝した瀧本哲史さん。
ずっと若者世代である「君たち」に向けてメッセージを送り続けてきた彼の
思想を凝縮した"伝説の東大講義"を、ここに一冊の本として完全収録する。
スタジオ収録盤にはないライブ盤のように、生前の瀧本さんの生の声と熱量の大きさ、そしてその普遍的なメッセージを、リアルに感じてもらえると思う。
さあ、チャイムは鳴った。さっそく講義を始めよう。
瀧本さんが未来に向けて飛ばす「檄」を受け取った君たちは、これから何を
学び、どう生きるべきか。この講義は、君たちへの一つの問いかけでもある。 

 

瀧本哲史という人物の名は学生時代から知ってはいた。
生協に行く度、店内の"一等地"に積まれた瀧本氏の著作を目にしてはいたものの、
結局、購入することも、手にとって立ち読みすることもなかった。

今はやや薄れたが、当時は「コンサルティング」という仕事に関する
懐疑が私の中に根強くあり、それにまつわる本は読まないと決めていたのだ。
故に、昨年の瀧本氏の訃報に接したときも、私にとっては単なるニュースに過ぎなかった。

そんな私が本書を読むことになったのは、SNSでの知人の投稿がきっかけだ。
瀧本氏のゼミで指導を受けていたという知人は、その死を心から悼み、氏の教えが自分の人生に大きな影響を与えたことを、とても熱っぽく、感情的に書き記していた。

普段のクールな彼の姿からは想像もつかないその文章に驚き、彼をしてここまで言わしめる瀧本氏とは、一体どんな人物だったのか非常に興味を抱いたのだ。

 

内容紹介にもあるように、本書は「若者世代」、特に20歳前後に向けて行われた講義を文字起こししたものだ。それ故、一般的な書き物からは伝わってこない、訴えかけるような語り口がありありと再現されている。

 

瀧本氏が聴衆に訴えていること、それは要約すると以下の内容になるだろう。

 

…仏教には「自燈明」という言葉があります。
開祖のブッダが亡くなるとき、弟子たちに「これから私たちは何を頼って生きていけばいいのでしょうか」と聞かれて、ブッダは「わしが死んだら、自分で考えて自分で決めろ、大事なことはすべて教えた」と答えました。
自ら明かりを燈せ。つまり、他の誰かがつけてくれた明かりに従って進むのではなく、自らが明かりになれ、と突き放したわけです。
これが極めて大事だと僕は思いますね
                     (P.13より, 一部体裁を変更) 

「絶対的に正しい答え」などは存在せず、それ故に自分で考えることが重要である。そして、自分自身を拠り所とするために、真に学ぶ必要がある。そうして、自らが形成した意志によって、世界を変えていく。この一連の営みが、氏の提案であり、1人でも多くの聴衆が実行することを望んで、熱弁を奮っているのだ。

 

ところで、世界(社会)を変えることは当然ながら簡単なことではない。特にその障壁となるのが、他社の存在である。どれほど理論武装したところで、他者が合理的に行動するとは限らない(余談だが、氏は非合理的な存在を「猿」とまでこき下ろしている)。

そこで、私達に求められるのが、「交渉」である。
ここから、コンサルティング業などを経験した瀧本氏の独自の議論が展開されていく。
詳細については、本書を読んでほしいが、「交渉」とは何も限定的なビジネス業界でだけ流通する手法ではなく、人間が生きていく上で必須のものである、ということがよくよくまとめられている。

 

本書の大筋について簡単にさらったが、最後に感銘を受けた箇所を共有したい。
講義に参加した学生からの質問に答える中で、瀧本氏は「誰かに盗まれてしまうようなアイディアには結局可能性がない」ことを指摘する。

すると、5年間を浪人と留年に費やしたある学生から「盗まれないものとはどういうものなのか?」という質問が飛んでくる。それに関する回答が、これまでの理論だった議論とは少し毛色の違うものだったのだ。

 

その人が過去に生きてきた人生とか、挫折とか、成功とか、そういうものは盗めないんですよね。                        
                                                       (P.185より) 

人間、というものに対する深い愛情が感じられないだろうか。もちろんそれは条件付きで、自らを拠り所として生きる者だけに与えられるものだろう。しかし、この箇所に、私は瀧本氏の人物的な魅力を大いに感じたのだ。

 

判断や行動の根拠を自らに置くことは、ともすれば冷淡な自己責任論に巻き込まれる可能性もある。だが、どのような過去があろうとも、すべてを個人の独自性として認めるという視点、それは何よりもヒューマニズムに溢れるものだ。

 

瀧本氏が内に秘めた寛容さが垣間見れるこの部分を読んで、私はようやく知人が書いた追悼文の本意を知るに至ったのだった。